高校を中退したのは退学処分だったかの真相や結婚話がテレビで壊れたことなど、他では知れない情報満載でお伝えしています。
野田聖子の学歴・経歴一覧
まずは野田聖子さんの学歴と主な経歴を年表形式で紹介します!
ふりがな | のだせいこ/しませいこ | |||
氏名 / 本名 |
野田聖子/※本名同じ※旧姓:島聖子 | |||
生年月日 | 1960年9月3日生 64歳 |
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出身 | 福岡県北九州市 | |||
身長 | (推定)165cm 血液型 A型 | |||
最終学歴 | 大卒 上智大学・外国語学部(現:国際教養学部)・比較文化学科 |
年 | 年齢 | 学歴・経歴 |
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1960 | 0歳 | 福岡県北九州市生まれ |
父親は八幡製鉄&母親は主婦 | ||
1964 | 3歳 | 小さき花の幼稚園?入園 |
1967 | 6歳 | 小さき花の幼稚園?卒園 |
田園調布雙葉小学校入学 | ||
1973 | 12歳 | 田園調布雙葉小学校卒業 |
田園調布雙葉中学校入学 | ||
1976 | 15歳 | 田園調布雙葉中学校卒業 |
田園調布雙葉高等学校・普通科入学 | ||
1977 | 16歳 | 田園調布雙葉高等学校・普通科中退 |
ジョーンズヴィル・ハイスクール留学 | ||
1978 | 18歳 | ジョーンズヴィル・ハイスクール卒業 |
上智大学・外国語学部(現:国際教養学部)・比較文化学科入学 | ||
1983 | 22歳 | 上智大学・外国語学部(現:国際教養学部)・比較文化学科卒業 |
帝国ホテル入社 | ||
1984 | 24歳 | 祖父・野田卯一の養子となる |
1987 | 27歳 | 岐阜県議会議員選挙当選 |
1993 | 33歳 | 第40回衆議院議員総選挙当選 |
1998 | 38歳 | 郵政大臣就任 |
2001 | 41歳 | 鶴保庸介と事実婚 |
2007 | 47歳 | 鶴保庸介と事実婚解消 |
2011 | 51歳 | 第一子男児出産 |
一般人男性と結婚(旦那が野田姓) | ||
2021 | 61歳 | 自民党総裁選出馬 |
(※緑文字:学歴 赤文字:印象的な事柄)
福岡県北九州市出身の野田聖子さん。父親の島稔さんは母方の実業家・島徳蔵さんの養子となり、八幡製鉄に入社しましたが若くして他界します。
母親の島弘子さんは❝野田聖子 母 弘子❞という名刺を配って政治活動を応援していたんですよ。
野田聖子さんは祖父で元建設大臣の野田卯一さんが「野田家が絶えてしまう。」と悲しんでいたのを見て養子になりました。
父親は母方の養子となり、野田聖子さんは父方の養子となるという複雑な家系なんですね。
野田聖子さんは妹の島桜子さんがいてコンサルタント業をしています。弟もいますが一般人のため詳しい情報はありません。
お金持ちな家庭に生まれ、5人家族として育った野田聖子さん。
そんな野田聖子さんはどんな学生生活を送っていたのでしょうか?当時のエピソードや画像などを現在からさかのぼりながら見ていきましょう!
野田聖子の出身大学
野田聖子さんは1978年9月に上智大学・外国語学部(現:国際教養学部)・比較文化学科へ帰国子女枠で入学し、1983年3月に卒業しています。
学校名 | 上智大学 |
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学部・学科 | 外国語学部(現:国際教養学部)・比較文化学科 |
偏差値 | 70 |
入試難度 | 難関 |
所在地 | 〒102-0081 東京都千代田区四番町4 |
最寄り駅 | 市ヶ谷駅(都営新宿線) |
公式HP | https://www.sophia.ac.jp/ |
野田聖子さんが上智大学外国語学部出身であることは、時事通信社の『JIJI.com』に同校出身と掲載されていることから間違いありません。(※外国語学部比較文化学科は2006年国際教養学部に改組され、2019年9月に廃止の市ヶ谷キャンパスにあった)
野田聖子さんはアメリカの大学に進学するつもりだったのですが、家庭の事情で日本に帰国しなければならない状況となり、上智大学外国語学部に進学することしました。
❝ミシガン州の学校に行こうということで方針は決めていたんだけど、家の事情があって、やっぱり急遽帰国してほしいってことになった。アメリカの大学に行きたかったので、そこと同じような環境のところで学びたいと、当時そのSAT(大学受験の予備テスト)という資格を認めてくれてた大学は上智の外国語学部と、早稲田の国際学部と、ICUぐらいしかなくていろいろ回った結果、上智大学がいちばん良かった。❞
引用元:【野田聖子(岐阜大学 田中伸研究室)】
上智大学外国語学部は9月1日入学なので、9月3日生まれの野田聖子さんは18歳になる直前の17歳で大学進学したんですよ。
上智大学外国語学部はアメリカのシステムを取っていたので、学費は1単位毎に徴収され、全て英語で授業がなされていました。
第二ヶ国語が日本語で源氏物語のことは❝the tale of shining prince❞というタイトルだったんですって!
野田聖子さんが5年間大学に通っていたのは、1982年2月9日に起きた『日本航空350便墜落事故』で地上職の内定取り消しになってしまったために卒業を遅らせたんだそう。
内定取り消しがあまりにもショックだったためにインドやヨーロッパへ旅行に行ったそうで、資金に余裕のある大学生だったのでしょう。
旅行から帰ってからはサントリーやソニー、日本テレビ、住友商事、香港上海銀行も受けたにもかかわらず落ちてしまったそうで、帝国ホテルに決まったのは当時の面接官と気があったからだそう。
野田聖子さんは政治家である野田卯一さんのコネを使ったのかと思いきや、自力で就職を決めてきたとは努力家なんですね。
野田聖子の大恋愛はテレビで壊れた!
野田聖子さんが20歳のときにお付き合いしていた彼氏と結婚の話が出てきて、彼氏が母親がテレビを見ている前に立ちはだかって「聖子さんと結婚させてください」と言ったのですが、見たいテレビを遮られたのに腹を立てて「あなた達の話なんか聞いてらんないわよ」と応えたんだそう。
結婚の話は白紙になってしまうのですが、その時に結婚していたら『政治家野田聖子』は存在しなかったことになっていたかもしれないですね。
部活は競技スキーサークル『アルカディア』に入部しています。基礎スキーのSAJ1級はすでに取得済みだったとも言われている野田聖子さんにとって魅力のある部活だったのでしょう。
シーズン中は白馬に入り浸りで、日本生命の福利厚生施設であるロッジのまかないをしていたんだとか。
ちなみに競技スキーはタイムを競うスキーで、基礎スキーはタイムは測らずに滑る姿の美しさを競うスキーです。
そのサークルで仲間がたくさんできて、楽しい学生生活を送っていました。
意外にも野田聖子さんはアルバイトをしていて、英語の家庭教師を子供や主婦相手にしていたんですよ。
野田聖子の出身高校
野田聖子さんは1976年4月に田園調布雙葉(ふたば)高等学校・普通科へ入学し、1977年に中退。
ジョーンズヴィル・ハイスクールに留学し、1978年6月に卒業しています。
【田園調布雙葉高等学校】
学校名 | 田園調布雙葉高等学校 |
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学科・コース | 普通科 |
偏差値 | 65 |
入試難度 | 難関 |
所在地 | 〒158-0085 東京都世田谷区玉川田園調布1−20−9 |
公式HP | https://www.denenchofufutaba.ed.jp/juniorandsenior/ |
【ジョーンズヴィルハイスクール】
学校名 | ジョーンズヴィル・ハイスクール |
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学科・コース | ─ |
偏差値 | ─ |
入試難度 | ─ |
所在地 | 460 Adrian St, Jonesville, MI 49250 アメリカ合衆国 |
最寄り駅 | アルビオン駅(アムトラック) |
公式HP | https://www.jonesvilleschools.org/ |
野田聖子さんが田園調布雙葉高等学校を中退し、ジョーンズヴィルハイスクールに留学して卒業したことは、『新潮社』のホームページに掲載されていることから間違いありません。
❝田園調布雙葉高等学校中退後、米国に留学。ミシガン州ジョーンズビルハイスクールを卒業。❞
引用元:【野田聖子(新潮社)】
当時のTシャツは息子さんのベビー服にリメイクされています。
野田聖子さんはものを大切にする人なんですね。
野田聖子の中退は退学処分だった?
高校在学中に校則違反であるバイクの免許を取得したことが原因で野田聖子さんは事実上の退学処分を受けたという情報があります。
野田聖子さんは退学処分について詳細は語っていませんが、居づらい状態であったことは確かのようです。
❝たぶん私は他の人よりもエンジンがでかくて、そういう安定調和の中に居づらくなってしまって、今の学校が悪いわけじゃないけどなんか物足りないっていう中で親と相談して、だったら当時はまだあまり身近でなかったアメリカに留学したらどうだという話になりました。❞
引用元:【野田聖子(岐阜大学 田中伸研究室)】
同インタビューで野田聖子さんは両親が「留学のお金は出せない」と言ったと語っていることを見ると、退学処分を受けたために留学資金は出さないとも受け取れますね。
ただ、野田聖子さんは「若い頃から変わったことがしたかった。」と言っているので、当時では珍しい行動が周囲には受け入れ難かったのでしょう。
それが証拠に、英国のロックバンド『QUEEN』に影響を受けて野田聖子さんも1976年にバンドを結成し、学園祭で演奏しました。
カトリック系の女子校でロックバンドとは異色を放っていたのではないでしょうか。
1977年、財団法人YFU(Youth For Understanding)日本国際交流財団・派遣学生奨学金制度の試験に合格したため、アメリカ・ミシガン州ジョーンズビルハイスクールに留学します。
野田聖子さんはアメリカの大学に進学するつもりだったのですが、家庭の事情で日本に帰国しなければならない状況となり、上智大学外国語学部に進学することしました。
❝ミシガン州の学校に行こうということで方針は決めていたんだけど、家の事情があって、やっぱり急遽帰国してほしいってことになった。アメリカの大学に行きたかったので、そこと同じような環境のところで学びたいと、当時そのSAT(大学受験の予備テスト)という資格を認めてくれてた大学は上智の外国語学部と、早稲田の国際学部と、ICUぐらいしかなくていろいろ回った結果、上智大学がいちばん良かった。❞
引用元:【野田聖子(岐阜大学 田中伸研究室)】
上智大学外国語学部は9月入学なので、9月3日生まれの野田聖子さんは18歳になる直前の17歳で大学進学したんですよ。
野田聖子の出身中学校
野田聖子さんは1973年4月に田園調布雙葉中学校へ入学し、1976年3月に卒業しています。
学校名 | 田園調布雙葉中学校 |
---|---|
偏差値 | ─ |
入試難度 | ─ |
所在地 | 〒158-0085 東京都世田谷区玉川田園調布1−20−9 |
公式HP | https://www.denenchofufutaba.ed.jp/juniorandsenior/ |
野田聖子さんが田園調布雙葉中学校出身であることは、働く女性の声を発信するサイト『イー・ウーマン』に同校の小学校に入学してエスカレター式だったとインタビューに答えていることから間違いありません。
❝父の転勤で東京に来て、田園調布雙葉学園小学校に入学したの。田園調布雙葉学園はエスカレーター式で上がっていく学校❞
引用元:【INTWERVIEW149野田聖子さん(イー・ウーマン)】
野田聖子はサッカー部を創部
野田聖子さんはサッカーに夢中だったのですが、学校にはサッカー部がなかったため、自らサッカー部を作ってしまいました。
ポジションはFWでしたが、当時は女子サッカー部が他校にはなかったため、対抗試合は実現できなかったんですよ。
中学3年生のときには立候補して生徒会長を務めていたんですって!本人は気づいていないでしょうが、政治家への片鱗が見えますね。
野田聖子の出身小学校
野田聖子さんは1967年4月に田園調布雙葉小学校へ入学し、1973年3月に卒業しています。
学校名 | 田園調布雙葉小学校 |
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所在地 | 〒158-0085 東京都世田谷区玉川田園調布1−20−9 |
公式HP | https://www.denenchofufutaba.ed.jp/elementary/ |
野田聖子さんが田園調布雙葉小学校出身であることは、中学と同様『イー・ウーマン』に掲載されていることから間違いありません。
野田聖子はおてんばだった
田園調布雙葉小学校は一貫して高等学校まで進学するシステムで、中学や高校で途中入学してくるケースは稀です。
1学年3クラスと少ない生徒数のなかで、おてんばだった野田聖子さんにとって目立ちすぎて居心地の悪い思いもしたんだそう。
もっと色んなことにチャレンジしたい好奇心旺盛な子供だったので、枠の中に閉じ込められた印象があったのでしょう。
野田聖子の幼稚園
野田聖子さんは大田区田園調布にある小さき花の幼稚園を1967年3月に卒園しているという情報がありますが、確証が取れているわけではなく、それ以上詳しいことがあきらかになっておりませんので、新しい情報が入りましたら追記します。
出身地については『イー・ウーマン』のインタビューで語っていました。
❝うちの両親は、九州にあった方の八幡製鐵の社員だったの。そこで出会って結婚して、八幡の社宅で生まれたから、出生地は福岡なの。❞
引用元:【インタビュー野田聖子さん(イー・ウーマン)】
昭和の時代を感じる母子手帳ですね。
野田聖子さんは24歳のときに祖父・野田卯一元建設大臣の養女になっていて、それまで島家で育ちました。
父親は野田家から島家に養子入りしたにもかかわらず、野田聖子さんは島家から野田家に養女になっていて、複雑な人生を送っていたんですね。
野田聖子の学歴まとめ
ここまで野田聖子さんの学歴について見てきましたが、出身地は福岡県八幡市(現:北九州市)でしょう。
八幡市は皿倉山で有名なので野田聖子さんはケーブルカーに乗って若戸大橋を一望していたかも?
野田聖子さんは変わったことがしたかった女学生だったために高校を中退してミシガン州の高校を卒業しました。
海外の高校生活を経験したことでより革新的な女性に成長したと考えられ、今後の政治活動に期待が持てますね。