あだ名がUFOだったことや中卒のつもりだったことなど、他では知れない情報満載でお伝えしています。
西野亮廣の出身大学
西野亮廣さんは大学に進学していません。
2018年9月28日発信の西野亮廣公式ブログで❝まず大前提として僕は高卒です。❞と語っていることから大学には進学していません。
高校を卒業してすぐにNSC(吉本総合芸能学院)大阪22期生で入所し、『グリーングリーン』というコンビを組んでいましたが、1999年に梶原雄太さんと『キングコング』を結成しています。
当時、梶原雄太さんは『NINNIN丸』というコンビを組んでいて、お互いにNSCで月間MVPを獲得していました。
しかし、自然と惹かれ合ってキングコングを結成するというまるで恋愛のような感じだったんですよ。
❝こんだけの人を笑わそうと思ったら大変やなーって、ぽろっと僕は言ったんですよ。すると梶原くんが、俺たち2人だったらできるよ、みたいなの言って。今ここに僕と梶原しかいないんですよ、もう両思いじゃん。❞
引用元:【「キングコング」コンビ結成秘話(2019年10月12日放送Voicy)】
(※Voicyとはラジオ・Podcastとも異なる、どこにもないボイスメディア)
2001年4月放送のバラエティ『はねるのトびら』にレギュラー出演が決まった西野亮廣さんは毎日寝ているのか気絶しているのかわからないほど漫才のネタを書き続けたんだとか。
気絶に近い状態だったということを聞いて下記の画像を見ると、鎖骨が出ているのがやつれているみたいですね…。
それでも人気者の『キングコング』は超ハードスケジュールだったことから、西野亮廣さんは漫才をしながら次の舞台のネタを考えていたんですって!
相方の梶原雄太さんは10円ハゲを作るようになり、忙しさのあまり精神が崩壊して声さえもでなくなってしまったんだそう…。
西野亮廣さんは梶原雄太さんが治るのを待つことを決め、漫才のネタを書くことに没頭したそうで、尋常ではない集中力の持ち主ですよね。
3ヶ月で梶原雄太さんは復帰したときにはレギュラー番組は一つも残っていませんでしたが、その後の3ヶ月で以前以上のレギュラーを獲得したんですよ!
いかに西野亮廣さんの才能が飛び抜けていたかがわかります。
若い頃の西野亮廣さんの画像を見ると、髪の色も違って髭を生やしていることから誰かわかりませんね。
西野亮廣の出身高校
西野亮廣さんは1996年4月に兵庫県立川西緑台高等学校へ入学し、1999年3月に卒業しています。
学校名 | 兵庫県立川西緑台高等学校 |
---|---|
学科・コース | 調査中 |
偏差値 | 58~63 |
入試難度 | 高 |
所在地 | 〒666-0115 兵庫県川西市向陽台1丁目8 |
最寄り駅 | 平野駅(川西能勢口妙見線) |
公式HP | http://www.hyogo-c.ed.jp/~midoridai-hs/ |
西野亮廣さんが川西緑台高校出身であることは、2020年12月10日発信『朝日新聞EduA』に同校出身と掲載されていることから間違いありません。
❝にしの・あきひろ/1980年、兵庫県生まれ。兵庫県立川西緑台高等学校卒業後、吉本総合芸能学院(NSC)へ。❞
引用元:【芸人・絵本作家の西野亮廣さん 兵庫県立川西緑台高校 運動場にこっそり立てたツリー(朝日新聞EduA)】
西野亮廣は真面目で最下位!
西野亮廣さんは、学校が大好きで真面目に学校に行って授業を受けていましたが、最下位あたりをウロウロしていたんだそう。
❝成績は常に学年最下位あたりをウロウロ。生徒が数百人にいて、下から10番以内が定位置。先生が何語を喋っているかが本当に分からなくて、キチンと落ちこぼれて、「あー、勉強ってツマンネーなー!」となって❞
引用元:【世界一楽しい学校がやって来た。(西野亮廣公式ブログ)】
部活は廃部寸前で下積み生活をしなくてもいいだろうという理由でハンドボール部に所属したんですよ。
やる気のなさそうな印象ですが、最下位リーグだったチームを1部リーグにまで引き上げたんですって!
西野亮廣さんは本気になったら人並み以上のちからを発揮するんですね。
当時の画像を見ると、イケメンの好青年ですよ。
卒アルは優しい印象で女の子みたいですね。
西野亮廣の出身中学校
西野亮廣さんは1993年4月に川西市立多田中学校へ入学し、1996年3月に卒業しています。
学校名 | 川西市立多田中学校 |
---|---|
偏差値 | ─ |
入試難度 | ─ |
所在地 | 〒666-0125 兵庫県川西市新田2丁目29−1 |
最寄り駅 | 多田駅(能勢電鉄妙見線) |
公式HP | http://www.kawanishi-hyg.ed.jp/tadajo/ |
西野亮廣さんがただ中学校出身であることは、本人のフェイスブックで語られていることから間違いありません。
そういえば、高校は時々、遊びに行っていたのだけれど、中学校に行くのは、卒業後初めてじゃないかしら?
明日、母校の「多田中学」にお邪魔します。
校舎とか、どんな感じになってんだろ?
楽しみだな。西野 亮廣さんの投稿 2017年9月18日月曜日
西野亮廣は中卒のつもりだった!
西野亮廣さんは高校に行っている時間がもったいないと中学を卒業してすぐにNSC(吉本総合芸能学院)に入所するつもりだったんだそう。
しかし、母親から「高校ぐらいはでておいて」と言われたことで進学しているんですが、にしては高偏差値の学校です。
西野亮廣さんはもともと地頭がいいことがうかがえますね。
西野亮廣の出身小学校
西野亮廣さんは1987年4月に川西市立多田東小学校へ入学し、1993年3月に卒業しています。
学校名 | 川西市立多田東小学校 |
---|---|
所在地 | 〒666-0122 兵庫県川西市東多田3丁目21−1 |
最寄り駅 | 多田駅(能勢電鉄妙見線) |
公式HP | http://www.kawanishi-hyg.ed.jp/tadahipo/ |
西野亮廣さんが多田東小学校出身であることは、同校出身という本人のつぶやきがあることから間違いありません。
我が母校・多田東小学校なう。裏山に17個の本格的な秘密基地(ツリーハウス)を作った。 pic.twitter.com/wcFHWFy3
— 西野えほん(キングコング) (@nishinoakihiro) January 9, 2013
西野亮廣のあだ名はUFOだった!
西野亮廣さんのあだ名は、西野から日清になり、焼きそばUFOから『UFO』になったんだそう。
教室では昨晩に見た面白い番組を真似てウケていた少年だったようで、クラスの人気者でした。
卒アルを見ると、お笑いというよりも子役でデビューできそうなくらいイケメンですよね。
当時流行っていたファミコンにドハマリをして、家にいる間はずっとゲームをしていた西野亮廣さんは幼いころから熱中するタイプなんですね。
小学校が大好きだったので、今でも校歌を歌えるんですよ!
在学しているときから何度も歌っていたのでしょう。
西野亮廣の出身幼稚園
西野亮廣さんは1984年4月に幼稚園へ入園し、1987年3月に卒園しています。
西野亮廣さんの出身幼稚園がどこなのかは明らかにされていませんが、2020年2月25日発信の西野亮廣公式ブログで❝幼稚園に通っていた❞と語っていることから、多田東小学校に近い下記のどちらかの幼稚園に通っていたと考えられます。
- 緑台幼稚園
- 川西市立多田幼稚園
西野亮廣はいちばん損な役?
西野亮廣さんには5歳離れた兄と姉、6歳離れた弟がいるのですが、兄と姉は長男長女だったため新品の服を買ってもらっていました。
西野亮廣さんは兄のおさがりばかりで、6歳年下の弟ではぼろぼろすぎて着れなかったので新品を買ってもらっていたんだそう…。
4人兄弟で西野亮廣さんだけ❝おさがり❞を着ていたという損な役だったんですよ。
年に一度の外食のときは両親に気を使って野菜炒めを注文したり、お年玉を母親に預けて忘れたフリをして生活の足しになるように仕向けていたようで、幼稚園にして出来すぎです!
海では裸で泳ぐほどの天真爛漫な西野亮廣さんでしたが、実は親に気を使ってんですね。
更に幼い頃の画像は三戸なつめさんと見間違うくらいの前髪です。
西野亮廣の学歴一覧・出身地詳細
【未確定】幼稚園 | |||
---|---|---|---|
入園年月 | 1984年4月 | ||
卒園年月 | 1987年3月 | ||
川西市立多田東小学校 | |||
入学年月 | 1987年4月 | ||
卒業年月 | 1993年3月 | ||
川西市立多田中学校 | |||
偏差値 | ─ | 入試難度 | ─ |
入学年月 | 1993年4月 | ||
卒業年月 | 1996年3月 | ||
兵庫県立川西緑台高等学校 | |||
偏差値 | 58.0~63.0 | 入試難度 | 高 |
入学年月 | 1996年4月 | ||
卒業年月 | 1999年3月 | ||
大学【進学せず】 | |||
偏差値 | ─ | 入試難度 | ─ |
入学年月 | ─ | ||
卒業年月 | ─ |
ここまで西野亮廣さんの学歴について見てきましたが、出身小学校が川西市立多田東小学校ということから出身地は兵庫県川西市でしょう。
川西市は多田神社があるので西野亮廣さんは初詣のお参りに行っていたのかも?
西野亮廣さんは小学2年生から芸人になると決め、高校を卒業してもブレませんでした。
絵本作家やサロン経営などお笑いとは異なる分野でも才能を発揮していますが、基本は面白いかどうかという核の部分は健在です。
まだまだ学歴社会と言われる日本で、大学に進学するという道を選ばなくとも成功できる見本であり続けてくれることでしょう。