高須克弥

高須克弥さんの出身大学や高校などの学歴と本当の出身地を徹底解説!卒アル画像や幼少期の画像を含め、学生時代に迫ります!

高須白豚くんで年賀状が来ていたことや博士論文が医学雑誌に載ったことなど、他では知れない情報満載でお伝えしています。

高須克弥の出身大学院

昭和大学大学院

高須克弥さんは1969年月に昭和大学大学院・医学研究科へ入学し、1973年3月に卒業しています。

学校名 昭和大学大学院
研究科・専攻 医学研究科
所在地 〒142-8555
東京都品川区旗の台1-5-8
最寄り駅 旗の台駅(東急大井町線)
公式HP https://www.showa-u.ac.jp/education/grad_med/

高須克弥さんが昭和大学大学院・医学研究科の出身であると「高須クリニック」のドクター・スタッフ紹介ページに掲載されていることから間違いありません。

高須克弥 プロフィール

高須克弥さんは大学卒業後、昭和大学の整形外科医局に所属しながら大学院に進学しました。

上記のプロフィールにあるように、高須克弥さんは1970年イタリア・ローマ大学、ボローニャ大学、クリスティアン・アルブレヒト大学キール大学(西ドイツ・キール大学)、1972年に再度キール大学へ留学しています。

【キール大学時代】

高須克弥 キール大学

キール大学は卒業生や教員から12名もノーベル賞受賞者を輩出している優秀な大学なんですよ。

高須克弥さんが現地の学生と対等に会話をしている様子をみると、医学も語学も長けていることがうかがえますね。

国境を超えて仲良くダンスしている画像からもコミュニケーション能力に優れていることも分かります。

高須克弥 大学院時代 留学

高須克弥さんは整形外科の股関節外科の専門医として留学していたのですが、キール大学の教授が自分自身の鼻を小さくする手術を見てカルチャーショックを受け、日本にはまだなかった美容整形にハマっていったんだそう。

えらを削る、あごを短くする、歯のかみ合わせを整える手術に感動したそうで、日本医療の未開の地に興奮を覚えたのでしょうね。

留学ばかりで昭和大学大学院の勉強がおろそかになっていたのかと思いきや、1年生で終了させていたんですよ。

高須克弥の博士論文は医学雑誌に!

一般財団法人・高須克弥記念財団によると、高須克弥さんは博士論文『四肢切断者の幻肢に関する研究』を1年生のときに書き終えただけでなく医学雑誌に掲載されているんですよ。

具体的な医学雑誌名は明らかになっていませんが、高須克弥さんの当時の研究は最先端であり、50年経過しても最先端を維持しているんですよ。

アスリートでも記録を50年間維持するのは困難な中、第一線を走り続けている高須克弥さんは本当にすごいですね。

ちなみに、博士論文の研究は自衛隊病院で行われたそう。

もし、高須克弥さんが自衛隊病院 に就職したら、破天荒な発想で目立っていたでしょう。

高須克弥の出身大学

昭和大学

高須克弥さんは1963年4月に昭和医科大学(現:昭和大学)・医学部へ入学し、1969年4月に卒業しています。

学校名 昭和医科大学(現:昭和大学)
学部・学科 医学部
偏差値 71.0
入試難度 難関
所在地 〒142-8555
東京都品川区旗の台1-5-8
最寄り駅 旗の台駅(東急大井町線)
公式HP https://www.showa-u.ac.jp/education/med/

高須克弥さんが昭和出身であることは、大学院と同様と高須クリニックドクター・スタッフ紹介ページに掲載されていることから間違いありません。

オピニオン誌『月間Hanadaセレクション2020』における高須克弥さんの母親インタビューによると、当時の昭和医科大学の偏差値は良くなかったようです。

❝当時の医学部偏差値ランキングでいえば三流大学であり、まわりには開業医の子弟のおちこぼれボンボンがたくさんいた❞
引用元:【月間Hanadaセレクション2020】

高須克弥は跳び蹴りの克!

高須克弥さんは空手部にも所属していました。当時の画像をみると、前髪がまっすぐでお坊ちゃまですね。

高須克弥 大学時代

空手の得意技は膝蹴りで、学生時代には❝跳び蹴りの克❞と呼ばれていたんですよ。

勉強だけでなくスポーツにも精通していたとは…凄すぎますよね!

高須克弥さんは空手部だけでなく、昭和医科大学に存在していなかったアイスホッケー部を設立しました。

当時まだ関東の医学部リーグに所属するアイスホッケー部が慶應義塾大学、東京慈恵会医科大学 、東京医科大学の3つの大学しかなかったことから、この中に入れば関東ベスト3を目指せる!と理事長を説得したんだそう。

右側から5人目が高須克弥さんですが、若々しい姿で好青年な印象を受けますね。

高須克弥 大学時代

高須克弥さんはアイスホッケー部の初代主将として狙い通り関東3位になりました。チーム数はさておき結果にこだわるところが高須克弥さんのモットーなのでしょう。

また当時は安保闘争の真っ只中だったこともあり、デモに参加したこともあったんだとか。しかし、デート気分だったんですよ…。

❝何も知らないもんだから奥さんも一緒にピクニックに出掛けるような気分で行ったね。奥さんなんかハイヒールを履いていたんだよ。そんな中で正面に機動隊が棒持って立ってるでしょ。こりゃエラいことになったなあ、と思いましたよ。❞
引用元:【【連載】『あの人の学生時代。』 ♯5:高須クリニック院長 高須克弥(マイナビ学生の窓口)】

高須克弥さんは大学時代に元嫁・高須シズさんと出会っていたんですね。

2年生までは麻雀ばかりしていたので、高須シズさんにノートを借りていたんですって!

成績は優秀だったそうで、高須シズさんのノートもさることながら読んだだけで理解できるほど高須克弥さんの頭脳は明晰だったということですね。

【高須克弥の大学時代の同級生】

  • 高須シズ(医師、実業家)

高須克弥の出身高校

東海高等学校

高須克弥さんは1960年4月に東海高等学校・普通科へ入学し、1963年3月に卒業しています。

学校名 東海高等学校
学科・コース 普通科
偏差値 73.0
入試難度 難関
所在地 〒461-0003
名古屋市東区筒井1丁目2-35
最寄り駅 車道駅(地下鉄桜通線)
公式HP https://www.tokai-jh.ed.jp/profile/04.html

高須克弥さんが東海高等学校の出身であることは高須克弥記念財団で❝東海高校に進学した❞と掲載されていることから間違いありません。

❝高須克弥は、地元の中学校を卒業し名古屋の有名私立「東海高校」に進学した。❞
引用元:【一般財団法人 高須克弥記念財団】

高須克弥は石原裕次郎のマネ!

高校時代にはモテようと映画スターの石原裕次郎さんの歩き方の真似をしていたんだそう。

当時の画像をみると、左肩を下げてみたり学ランの前を開けてみたりとかっこよく見せるために試行錯誤していたのでしょうね。

高須克弥 高校時代

高須克弥 高校時代

男は強くないとモテないからと柔道をしていたんですよ。

❝だから『姿三四郎』のような映画をみて、柔道や空手の強い三四郎やライバル関係の檜垣源之助に憧れていた。それで東海高時代に柔道もやったの。❞
引用元:【「【二十歳のころ 高須克弥(2)】医学部時代ノート貸してくれた女友達が「YES高須クリニック!」考案した女房」サンスポ】

高校時代に柔道、大学で空手をしていたことで、大学院でイタリアやドイツに行ったときには演舞を披露して大歓声を浴びていたでしょう。

武道ができる男性は、世界共通のかっこよさを兼ね備えていますよね。




高須克弥の出身中学校

一色町立一色中学校

高須克弥さんは1957年4月に一色町立一色中学校へ入学し、1960年3月に卒業しています。

学校名 一色町立一色中学校(現:西尾市立一色中学校)
偏差値
入試難度
所在地 〒444-0413
愛知県西尾市一色町坂田新田沖向95番地
最寄り駅 吉良吉田駅(名鉄西尾線)
公式HP http://www.nishio.ed.jp/isshiki-chu/

高須克弥さんが一色町立一色中学校の出身であるとは、自身が同校出身とつぶやいていることから間違いありません。

高須克弥はおじに言われた大成するぞ!

高須克弥さんが中学1年生の時に、父親が41歳の若さで心筋梗塞で亡くなっています。

中学1年生で父親がいなくなってしまったことは想像できないほどショックだったでしょう。父親の兄弟は高須克弥さんを心配して言葉をかけてあげるんですよ。

❝志し半ばで倒れた父を持った息子は、父のエネルギーを引き継ぐから大成できるぞ。ラッキーだと思え❞
引用元:【徳川家康に施した懸命な介抱が、高須家のはじまりとなった。(一般財団法人高須克弥記念財団)】

今でも心に残っているのは、「大成できるぞ」という言葉に支えられたからでしょう。

高須克弥さんの父親はかなりスパルタで、泳げない高須克弥さんを手漕ぎボートに乗せて沖へ連れて行き無理矢理泳がせたりしていたんだとか。

厳ししつけを耐えたエネルギーと父親からのエネルギーが増幅して今の高須克弥さんがあるんですね。

高須克弥の出身小学校

一色町立一色西部小学校

高須克弥さんは1951年4月に一色町立一色西部小学校(現:西尾市立一色西部小学校)へ入学し、1956年3月に卒業しています。

学校名 一色町立一色西部小学校(現:西尾市立一色西部小学校)
所在地 〒444-0426
愛知県西尾市 一色町治明通縄68
最寄り駅 福地駅(名鉄西尾線)
公式HP http://www.nishio.ed.jp/isshikisaibu-sho/

高須克弥さんが一色町立一色中学校の出身であることとは、自身が同校出身とつぶやいていることから間違いありません。

高須克弥のあだ名は白豚!

高須克弥さんは小学生の頃、色が白くてぽっちゃりしていたので❝白豚❞と呼ばれていたんですよ…。

白黒の画像からも色が白かったことがうかがえますね。

高須克弥 小学生時代

顔はふっくらとしていますが、体はスリムだったんですよ。

高須克弥 小学生時代

高須克弥さんの家系は代々医者で、戦争を経験しても裕福な環境だったそう。

貧しい子どもたちからすると羨ましくて、高須克弥さんは格好のいじめの対象となってしまいました。

ノートを破られたり、石をぶつけられたり、服を破かれたり…『高須白豚くん』と書かれた年賀状が届いたこともあったんですって!

決してやられてばかりだったというわけではなく高須克弥さんは「口」で攻撃しており、高須克弥さんの祖母の❝あなたは特別❞という教えがあったため、気持ち的には優位に立っていたそう。

今でもかなり口達者なイメージのある高須克弥さんですが、当時からすでに口が立つ少年だったことがうかがいしれますね。

高須克弥さんは家庭教師をつけてもらっていたことで小学1年生にして高校生並みの学力があったそうで口では誰にも負けなかったことでしょう。

高須克弥さんは高須家に100年ぶりに産まれた男子だったので、大切に育てられたんですよ。

幼少期の画像をみると、写真館で撮影していることからも坊っちゃんです。

高須克弥 幼少期

高須克弥 幼少期

高須克弥の学歴一覧・出身地詳細

高須克弥

【調査中】幼稚園 保育園
入園年月 1948年4月
卒園年月 1951年3月
一色町立一色西部小学校(現・西尾市立一色西部小学校)
入学年月 1951年4月
卒業年月 1957年3月
一色町立一色中学校(現・西尾市立一色中学校)
偏差値 入試難度
入学年月 1957年4月
卒業年月 1960年3月
東海高等学校
偏差値 73.0 入試難度 難関
入学年月 1960年4月
卒業年月 1963年3月
昭和医科大学(現:昭和大学)
偏差値 71.0 入試難度 難関
入学年月 1963年4月
卒業年月 1969年3月
昭和医科大学・大学院(現:昭和大学)
偏差値 入試難度
入学年月 1969年4月
卒業年月 1973年3月

ここまで高須克弥さんの学歴について見てきましたが、出身中学が一色町立一色西部小学校ということから出身地は愛知県西尾市でしょう。

愛知県西尾市は一色うなぎで有名なので高須克弥さんはもツイッターで「高須院長は我が地元の三河一色町の御出身なのだ。」とツイートしています。

子供時代壮絶ないじめを受けるも、父親の激しい指導や、高須克弥さん自身の口での攻撃で切り抜けたというのはさすがという印象を受けますよね。