いつまでも若く演技や歌唱力にも定評があり、結婚してパパになっても人気が衰えない福山雅治さんの高校を始めとする、全学歴・偏差値を徹底解説!学生時代のエピソードと主な経歴、実家や家族構成を含めた生い立ちに迫ります!
知られざる自衛官の兄の存在や、実は元ヤンだった過去が判明!?
福山雅治の学歴・経歴一覧
ふりがな | ふくやままさはる | |||
氏名 / 本名 |
福山雅治/※本名同じ | |||
生年月日 | 1969年2月6日生 55歳 |
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出身 | 長崎県長崎市淵町 | |||
身長 | 181cm 血液型 O型 | |||
最終学歴 | 高卒 長崎県立長崎工業高等学校・情報技術科 |
年 | 年齢 | 学歴・経歴 |
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1969 | 0歳 | 長崎県長崎市淵町生まれ |
父親は不動産業&母親は服の縫製業 | ||
1975 | 6歳 | 長崎市立稲佐小学校入学 |
授業をボイコットして警察沙汰! | ||
1981 | 12歳 | 長崎市立稲佐小学校卒業 |
1981 | 12歳 | 長崎市立淵中学校入学 |
40人のブラスバンド部の部長 | ||
初恋の女性と交際 | ||
リーゼントでバンド活動 | ||
パーマをあてて丸坊主!? | ||
1984 | 15歳 | 長崎市立淵中学校卒業 |
1984 | 15歳 | 長崎県立長崎工業高等学校・情報技術科入学 |
お菓子を食べたくて茶道部に入部 | ||
退学したくて喧嘩? | ||
バイクを乗り回して停学 | ||
1986 | 17歳 | 父親が他界 |
1987 | 18歳 | 長崎県立長崎工業高等学校・情報技術科卒業 |
1987 | 18歳 | ㈱システック井上に入社(営業職) |
1987 | 18歳 | 上京 |
新宿の宅配ピザ屋でアルバイトするも方言が抜けずクビに | ||
山口木材株式会社でアルバイト | ||
1988 | 19歳 | アミューズ10ムービーオーディション合格 |
『ほんの5g』で映画デビュー | ||
1990 | 21歳 | 『追憶の雨の中』で歌手デビュー |
1991 | 22歳 | 『ROCK AGE』でラジオデビュー |
『あしたがあるから』でドラマデビュー | ||
2010 | 41歳 | NHK大河ドラマ『龍馬伝』主演 |
2015 | 46歳 | 吹石一恵と結婚 |
2016 | 47歳 | 第一子誕生 |
2020 | 51歳 | 父親の名前を付けたアルバム『AKIRA』リリース |
(※緑文字:学歴 赤文字:印象的な事柄)
長崎県長崎市淵町出身の福山雅治さん。父親の福山明(ふくやまあきら)さんは20歳の時にそれまで勤めていた工場を辞め、家族が経営していた「まるふく不動産」に就職。
しかし、ほとんど開店休業状態で雀荘に入り浸り、泥酔して朝帰り、そして昼まで寝ている人だったそう…。
ただ麻雀の大会で準優勝したこともあるので、かなりの実力の持ち主だったと言えるでしょう。
母親の福山勝子(ふくやまかつこ)さんは洋裁の専門学校に通っていたため、結婚後はオーダーメイドの服を製作する仕事で家計を支えていました。
父親があまり働かず、母親の収入のみで生活をしていたため、あまり裕福な家庭ではなかったそう。
お兄さんの福山一明(ふくやまかずあき)さんは北海道江別で陸上自衛隊の自衛官で、現在は幹部にまで昇進しているとの情報もあります。既に結婚し子供は3人いるとのこと。
福山雅治さんは母親似でお兄さんは父親似といった感じ。色眼鏡が若干コワイ印象です。
ちなみに、福山雅治さんが音楽を始めるきっかけとなったのは、中学時代にお兄さんから吹奏楽部に誘われ入部したことがきっかけだったそう。
貧乏な家庭に生まれ、4人家族の次男として育った福山雅治さんはどんな学生生活を送っていたのでしょうか?
当時のエピソードや画像などを現在から順に見ていきましょう!
福山雅治の出身大学
福山雅治さんは大学に進学していません。
福山雅治さんはもともと有名人になることが将来の夢だったので、大学への進学は全く考えていなかったのでしょう。
その当時のエピソードに少し触れますと、高校卒業後は母親を安心させるために一度は㈱システック井上に営業職として入社しています。
しかし夢を追いかけるため、わずか4ヶ月で退社。「俺はビッグになる!」と長崎から東京へ上京しています。
その当時の画像を見ると、確かに上京しないともったいないレベルのイケメンですね!
上京する時に持っていたお金はバイクを売った20万円だけ…。その僅かな資金を握りしめ、寝台列車で19時間かけて上京したんだとか。寝台列車ではお金を取られないようにと靴下の中にお金を隠していたんだそうですが、カツアゲを恐れた中学生の行動のようで可愛いですね。
上京後、福山雅治さんは東京の福生市に住みながら新宿の宅配ピザ屋でアルバイトをしていましたが、長崎弁が抜けず「お店のイメージに合わないから」という理由でクビに…。当時は「長崎くん」というあだ名で呼ばれていたそうです。
上京後もかなり貧乏な生活で1杯70円のかけそばで毎日しのいでいたんだとか。
その後は「プロダクションの面接を受ける日は休みたい」という約束で『山口木材株式会社(材木店)』でアルバイトを始めます。
材木店でのアルバイトは本当に楽しくで、福山雅治さんにとって東京で初めて温かいと感じられる場所になったんだそう。
福山雅治さんは1988年にアミューズ10周年記念で10本の映画を撮るために行われた『アミューズ10ムービーオーディション』を受けました。
その後、最終オーディションの通知が来なかったため安く手に入れた中古車で遊びに出かけたところ、車のマフラーが落下してしまい慌てて自宅に戻りマフラーの修理をすることになります。
すると自宅に「電話しろ」という内容の電報が届いたため連絡を入れてみたところオーディション先の人が「なんで来ないんですか!あなた合格してますよ!」と電話口で言われたため、福山雅治さんは慌ててオーディションに参加しました。
その後、オーディションに見事合格。1988年11月26日公開の映画『ほんの5g』で福山雅治さんは橋本三蔵役で俳優デビューを飾りました。
同映画に橋本三蔵役として出演していますが、当時19歳だった福山雅治さんは肌が綺麗で透明感があるのに男っぽい不思議な魅力がありますね。
歌手としてのデビューは21歳の時。1990年3月21日リリース『追憶の雨の中』でした。
当初1989年5月にデビューする予定でしたが、レコーディングで喉に負担をかけてしまったのか、ポリープができてしまったためデビューが延期になっていたのです。
車のマフラーが落ちなかったらそのまま芸能界入りせず違う道に進んでいたのかもしれないと考えると、福山雅治さんが芸能界に入ることは運命のように感じますよね。
福山雅治の出身高校(偏差値・評判・学費)
福山雅治さんは1984年4月に長崎県立長崎工業高等学校・情報技術科へ入学し、1987年3月に卒業しています。
学校名 | 長崎県立長崎工業高等学校 |
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学部・学科 | 情報技術科 |
偏差値/難度 | 55/中 |
所在地 | 〒852-8052 長崎市岩屋町41-22 |
最寄駅 | 西浦上駅(JR九州長崎本線) |
学費 | 初年度:18万円 |
福山雅治さんの出身高校については同高校のホームページに「本校卒業生である福山雅治さんが…」と掲載されています。
長崎工業高等学校の偏差値は、福山雅治さんの入学当時40台で、大学への進学よりも高校で仕事につながる資格を取り就職することを目的に入学する学生が多い学校でしたが、現在は偏差値55に上昇しており、長崎県内で上位25位番目になっていますので、大学へ進学する学生も多くなってきている印象です。
主な卒業生には以下の方々がいます。
- 加藤隆行(元プロ野球選手)
- 岩谷テンホー(漫画家)
- 松崎兵太(アーティスト)
- 山口仙二(平和運動家)
福山雅治さんが長崎工業高校に入学した理由は、母親から「あんたね、公立県立に受からなかったら漁船に乗ってもらうから!」とキツく言われたことから。
そのため渋々最寄りの高校を選んだのですが、入学当初は辞めたくて仕方がなく、とんでもない行動をしてしまったのです…。
福山雅治は高校を退学したくて暴力騒動!?
福山雅治さんは両親の勧めで高校に入学したものの、勉強嫌いだったためとにかく高校を辞めたかったそう…。
母親に高校を辞めたいと言っても許されるはずもなかったため、「どうしたら退学できるのか?」を日々考えていたのですが、福山雅治さんは生徒手帳に書いてある「退学の条件」の中にある「暴力行為をはたらいて退学になる」ことを目標に行動に出ます。
福山雅治さんはクラスで気に入らなかった生徒に狙いを定めると、大勢のクラスメイトの前に連れ出し一暴れしました。
その状況にどんどんと生徒たちが集まってくる中、とうとう先生が止めに入ります。福山雅治さんは「これで退学できる!」という気持ちになったそうですが、先生は集まった生徒たちの前でこう言いました。「みんな、いいか。このことは誰にも言うな!」
福山雅治さんは先生にそう言われるとケンカ相手に握手をさせられ、退学は失敗に終わりました。当時を振り返り福山雅治さんはこのケンカを止めた堀江先生にはとても感謝しているそうですよ。
他にも、校則で禁止されているバイクを乗り回して学校を停学になったこともありますが、これも退学したいがための行動だったのかもしれません。
福山雅治の高校時代の部活が意外!
高校を辞めたがっていた福山雅治さんですが、意外にも高校生活は充実していて、隣の高校には福山雅治ファンクラブが結成されたりしています。
そうなると部活はスポーツ系とか音楽系なのかと思いきや、なんと福山雅治さんのイメージに全く無い『茶道部』に入部しているんですよね。
福山雅治さんが茶道部に入部した理由は「お菓子が食べられるから」だそう…。
茶道部でお茶をたて、お菓子を頬張る福山雅治さんの周りを女子たちが囲んでいるとは、豊臣秀吉もびっくりな状況です。
そんな福山雅治さんの高校時代の画像がこちら!
初めに紹介した短髪の卒アルの画像はさておき、ヘアスタイルを整えた画像はファンクラブができるのも納得のビジュアルですね。
福山雅治さんは高校時代、兄の福山和明さんと同級生で『LAR』というバンドで活動をしていました。福山雅治さんはギター、兄はドラムの担当だったとのこと。
また、高校内で『筋トレ愛好会』を立ち上げたという話もありますが、現在の肉体美はその頃から鍛え上げられたものだったんですね。
これだけかっこよくてギターも弾けて、なおかつこのボディーがあれば、鬼に金棒!こっちは脱帽です…。
誰もが羨む高校生活を送っていた福山雅治さんにも悲しい出来事がありました。それは、福山雅治さんが高校2年生(17歳)の時に、父親の明さんが約1年間の闘病生活の末、肺ガンで他界しています。
明さんは53歳の若さで亡くなった為、福山雅治さんは「雀荘に入り浸り、あんなにヤンチャだった父親がこんなに弱ってしまうとは…」と、とてもショックを受けたと言います。
明さんが闘病生活をしている間は、福山雅治さんにとっても辛い1年間だったそうです。
もしかすると、父親がいなくなり更に家計が苦しくなった状況が考えられ、そのため高校を早く辞めようとしていたのかもしれません。高校を嫌がっていた割に留年をしていないのはそのためでしょうね。
福山雅治の中学校
福山雅治さんは1981年4月に長崎市立淵中学校へ入学し、1984年3月に卒業しています。
学校名 | 長崎市立淵中学校 |
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所在地 | 〒852-8013 長崎県長崎市梁川町21-5 |
最寄駅 | 浦上駅(JR九州長崎本線) |
福山雅治さんの出身中学校については2019年4月11日放送の『櫻井・有吉THE夜会』にて母校の淵中学校時代のエピソードが紹介されています。
長崎市立淵中学校は1940年開校の歴史ある学校。その前身となる淵国民学校は原子爆弾の被害を受けていることから、学校の経営方針の中に「平和を発信する」ことを掲げています。
主な卒業生は以下の方々がいます。
- 増田珠(元プロ野球選手)
- 青来有一(小説家)
福山雅治は元ヤン!?中学時代の残念な卒アルの理由とは?
福山雅治さんは中学時代、お兄さんに誘われブラスバンド部に入部し、ホルンを担当していました。中学3年になるとブラスバンド部の部長として部活をまとめる存在になります。
部員40名の大所帯だったため部長を誰もやりたがりませんでしたが、福山雅治さんは朝練から放課後の練習まで上手くまとめていたそう。
淵中学校には今でも当時福山雅治さんが使用していたホルンが保管されていて、音楽室にはベートベンなどの肖像画に並んで福山雅治さんのライブの写真が飾られているんですよ!
当時から「マシャ」と言うあだ名で呼ばれ、色白で女子から人気があり、音楽室には『福山くん大好き』『福山くん命』などの落書きが常にあったそう。また、音楽の授業では席が自由だったため、女子たちが福山雅治さんの近くの席の争奪戦をしていとの話もあります。
その人気ぶりは既に芸能人級で、ブラスバンド部の練習を他校の女子生徒がわざわざ見に来るレベルでした。
福山雅治さんが音楽に目覚めるきっかけとなったのはこのブラスバンド部での活動と並行して別のクラスの仲間とお兄さんで組んだバンド活動が大きく影響しています。
お兄さんがドラム、福山雅治さんがギターを担当していましたが、中学生ながらバンドでは髪型をリーゼントにするなどかなりロックな風貌…。というよりほぼほぼ、浦飯幽助ですね。
他にも福山雅治さんの中学時代の画像がありますが、ボリューム満点のリーゼントだったり、日の丸バックにエレキギターを演奏したりとこれはまさしく元ヤンだったと言えるでしょう。
ちなみに、福山雅治さんがギターを始めったきっかけは、近所の家から漏れ聞こえたエレキギターがカッコよかったことから。
その曲はパンクロックバンド『THE MODS』の『不良少年の詩』でした。
そんなある日、お兄さんがギターを持って帰ってきました。そのギターを福山雅治さんが3,000円で購入し、独学で練習を始めます。
ライブを意識して鏡の前で練習をしていたそうで、ギターを弾くときの姿勢や表情などは『シーナ&ザ・ロケッツ』のリーダーの鮎川誠さんを参考にしていたとのことですが、そこはTHE MODSじゃないんかい…。
福山雅治さんはバンド『LRA』の前にも別メンバーとバンドを組んでいました。そのバンド名は…
「不死鳥(フェニックス)」
中2病全開のネーミングですね。福山雅治さんはこのバンドに同級生だった「しげちゃん」から誘われて入ったとのこと。音楽活動と併せてバイクも乗ろう、ステッカーも作ろうと誘われていたとのことですが、バンド名といい活動内容といい、それってほぼほぼ暴走族ですね…。
福山雅治は中学時代に初恋女性と交際
『イケメン+ブラスバンド部の部長+リーゼントでバンド活動』とモテる要素しかない福山雅治さんですが、意外にも女子に奥手だった様子。
中学3年生の時に初恋の相手(色白でお嬢様タイプの同級生)と両思いになり付き合い始めましたが、初デートの地元のお祭りでは手を握ろうにも手汗がすごかったと福山雅治さんは話しています。
一方、当時放送されていたちょっと大人向けの番組『11PM』を兄と2人で布団をかぶってこっそり見ていたんだとか…。
女性には興味があるけれども実際はちょっと照れる。その点についてはまさに中学生の普通の男子だったんですね。
さて、中学時代から他校から女子が見学に来るぐらいイケメンだった福山雅治さん。卒アルもバリバリロックな感じに写っているのかと思いきや、こんな仕上がりに…。
先ほど紹介したリーゼントからいきなりの丸坊主っ!福山雅治さんに一体何があったのでしょうか?
福山雅治は中学時代パーマで丸坊主!?
実は、中学校の卒業アルバムの撮影撮影に合わせてパーマをあてて登校したところ、生活指導の体育教師に呼び出され丸坊主にされてしまったのです。
中学校の修学旅行の集合写真に浮かれない表情の福山雅治さんがいるのはこのためです。
バッチリ決めたリーゼントでカッコよく写る予定のところ丸坊主にされたので、うなだれる気持ちはよくわかります。
福山雅治の出身小学校
福山雅治さんは1975年4月に長崎市立稲佐小学校へ入学し、1981年3月に卒業しています。
学校名 | 長崎市立稲佐小学校 |
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所在地 | 〒852-8011 長崎県長崎市稲佐町11-1 |
最寄駅 | 長崎駅(JR九州長崎本線) |
福山雅治さんの出身小学校については2017年12月1日リリースの『トモエ学園』のMVを母校の稲佐小学校で撮影しています。
稲佐小学校の歴史は古く、1882年に開校された下等小学校が前身となっています。この小学校の教育目標の中にある合言葉は「なりたい自分になる」ですが、まさしくこの合言葉を体現しているのが福山雅治さんだと言えるでしょう!
主な卒業生には元プロ野球選手の増田珠さんがいます。
福山雅治さんは小学校の頃から目立ちたがり屋で、とにかくやんちゃだったそう。友達の家の仏壇にお供えしてあるものを勝手に食べたり、勝手に父親のウイスキーを牛乳で割って飲んだことも。
未成年の飲酒は体に悪いので決して真似をしてはいけませんが、福山雅治さんは小学生で既にカクテル『カウボーイ』を楽しんでいたとは渋いですね。
またガキ大将で有名でしたが、イジメる側ではなく弱い子がいじめられたときに仕返しに行くなど正義の味方的な存在だったそう。
小学生時代は町内のソフトボールチーム『BENTEN』でピッチャーをしていました。
上記は小学4年生当時のユニフォーム姿の画像ですが、日焼けした姿はまさにスポーツ少年ですね。
福山雅治は小学生時代に授業ボイコットで警察沙汰!?
福山雅治さんが小学生の頃、1980年に開催されたモスクワオリンピックでボイコットが発生。「ボイコット」という単語を使ってみたかった福山雅治さんは友達を誘って体育の授業をボイコットしたんだそう。
ボイコットの方法は体育の授業前に教壇の下に隠れるというものでしたが、教壇から出るタイミングを失い、そのまま眠ってしまいます。
目を覚ますとクラスは福山雅治さんがいなくなったと大騒ぎになり警察まで出動する騒ぎとなっていました。騒ぎに驚き出ていくと、福山雅治さんの母親が激怒しながらクラスメイトの前でボコボコに殴ったんだそうです。
福山雅治さんの母親は本当に心配したのと安堵した気持ちからキツく叱ったのでしょう。
ちなみに父親は泥酔して朝帰りすることが多く、小学校の登校時間に重なると父親から「雅治勉強しろよ!」と言われていたんだとか。
その時、「お前(父親)には言われたくない」と思っていましたが、ボイコットをするなど破天荒な行動は父親譲りなのかもしれませんね。
福山雅治の出身幼稚園
福山雅治さんは私立宝珠幼稚園に入園し、1975年3月に卒園しています。
※園児の減少により2020年9月に閉園しています。
学校名 | 私立宝珠幼稚園 |
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所在地 | 〒852-8012 長崎県長崎市淵町8番1号 |
最寄駅 | 銭座町停留場(長崎電気軌道本線) |
福山雅治さんの出身幼稚園については2011年1月7日の長崎経済新聞に「福山雅治さんが通った…」と掲載され、同幼稚園の運動会の閉会式「記念メダル授与」では福山雅治さんの楽曲『家族になろうよ』がBGMとして起用されたりしています。
宝珠幼稚園は1972年、淵神社の境内に開園した私立幼稚園です。広い園庭で子どもたちがのびのびと遊べることが特徴的で、神社保育を掲げ自然とのふれあい、地域に密着した保育を行っていました。
福山雅治さんは宝珠幼稚園の三期生にあたります。
当時から既にヘアスタイルにこだわりがあり、母親が前髪を真っ直ぐ切り揃えるのが嫌だったとのこと。
幼稚園の卒アル画像がしかめっ面なのは右側の後ろ髪が若干伸び気味なのが気になっているわけではなく、「写真の撮影だっ!」ということで母親に前髪を揃えられたからなのかもしれません。
福山雅治は幼少期一人で通園するも女性にウブ過ぎ?
福山雅治さんはなんと自宅から約1キロほど離れた園まで1人で通っていたんだそうです。お家の人や友達と通園した記憶がなく、1人で行きも帰りも歩いて通っていました。
迷子になったり、人さらいに遭ってしまいそうですが、当時は普通のことだったそうですが、まだ幼い子が1人で往復していたというのは驚きですよね!
そんなたくましい福山雅治さんですが、ある雨の日にこんな事件が起こります。
その日、傘をささずに園まで歩いていたところ近所の一緒の園に通っている女の子が「福山くん、一緒に行こう」と傘を差し出してくれたんだそう。
普通なら喜んで傘に入れてもらい一緒に帰りますが、福山雅治さんは恥ずかしさのあまり、泣いて自宅に戻ってしまいます。
母親が「どげんしたとね雅治?」と聞くと福山雅治さんは「女の子に一緒に行こうって言われたー!」と泣きながら訴えんだそうですよ。
当時はきっと嬉しかったけど、突然のことに気持ちの整理がつかずにパニックになってしまったのでしょうね。
福山雅治さんは3歳から実家の近所にあった公民館で月、水、金に空手を習っていました。5歳でカッコよく型を決めている画像はこちらです!
福山雅治さんの身長画像左が福山雅治さんで右が兄の福山一明さん。福山雅治さんの身長は現在181cmですが、この頃から既に大きかったんですね。
当然ながら空手は練習や試合以外で使っていはいけませんが、当時のことを「そう言われれば言われるほど試したくなって…」と、2017年12月1日放送の『徹子の部屋』で振り返っています。
小学生時代、イジメられた友達の敵討ちをしていたのは単に習っていた空手を堂々と試せるというのが本当の理由だったのかも…?
後にバンドを一緒にすることになるお兄さんとは幼少期から大の仲良し。
お兄さんが肩にかけているのは虫カゴで手に持っているのは虫取り網のように見えるので、二人で虫取りをして楽しんでいるところのツーショットでしょうね。
兄弟で仲良く空手や虫取りをするなど幸せな幼少期を送っているように思えますが、実は福山雅治さんは親の愛に飢えていたのです…。
福山雅治の幼少期は母の愛情に飢えていた?
福山雅治さんは幼少期、「母親が兄ばかりをヒイキしている!」と感じていたことを2008年5月14日放送のラジオ『オールナイトニッポン』で愚痴っていました。
なんでも、昔の写真を見返すと兄の写真にはお菓子や何かしら買い与えられている感がでているものが多く、自分の写真は近所のヤギと遊んでいるような適当感あふれるものばかりだそう。
福山雅治さんは『日本全国次男連盟(全次連)』を結成し、「次男にも愛情を!」訴え続けているのはこのためなんですね。
福山雅治の学歴・経歴まとめ
ここまで福山雅治さんの学歴と主な経歴について見てきましたが、幼少期から体が大きくガキ大将で中学高校とヤンチャをしながらバンド活動、他校の女子が部活動を見学しに来るなど絵に書いたようん学生生活を送っていたことが分かりました。
高校卒業後、単身で上京し見事オーディションに合格できたのは幼少期から持ち合わせた物怖じしないマインドがポイントだったのかもしれません。
吹石一恵さんと結婚したときには、世間の女性がショックのあまりに行動がおかしくなる『ましゃロス』なる言葉まで生まれましたが、現在も歌や演技で申し分ないほどの活躍ぶりを見せ、人気は衰えを知らない福山雅治さん。
パパになって人生の経験を積むことで、より一層深みを帯びた福山雅治さんの活躍ぶりを楽しみにしています。