四国に釣られてサッカーを始めていたことやNHKラジオ放送劇の常連だったことなど、他では知れない情報満載でお伝えしています。
川淵三郎の出身大学
川淵三郎さんは1957年4月に早稲田大学・第二商学部(現:廃部)へ入学し、1961年3月に卒業しています。
学校名 | 早稲田大学 |
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学部・学科 | 第二商学部 |
偏差値 | ─ |
入試難度 | ─ |
所在地 | 〒169-0051 東京都新宿区西早稲田1丁目6−1 |
最寄り駅 | 早稲田駅(地下鉄東西線) |
公式HP | https://www.waseda.jp/fpse/pse/ |
川淵三郎さんが早稲田大学第二商学部出身であることは、早稲田大学のホームページに出身者として掲載されていることから間違いありません。
川淵三郎さんは2年浪人をしているのですが、笹川スポーツ財団のインタビューによると志望校は大阪大学でした。
予備校も行かずにサッカーに明け暮れていた川淵三郎さんは、サッカーで早稲田大学に合格したと言っても過言ではないんですよ。
❝2浪目のとき、大阪で開かれた都市対抗のサッカー大会で、高校のOBチームの一員として、日本代表選手が何人もいるチームと対戦。そこで、早稲田大学出身で後に日本代表の監督になった川本泰三さんが僕を認めて『これは早稲田に行かせて活躍させたほうがいいんじゃないの』と言ってくれたので、話がトントン拍子に進んで早大に入れたんです。❞
引用元:【堺をおもえば… 川淵三郎さん 堺の記憶(堺市)】
川淵三郎さんは早稲田大学からスカウトされたとも言え、川本泰三さんの期待通りに大活躍するんですよ。
川淵三郎はサッカー日本代表!
川淵三郎さんは大学2年生から日本代表に選ばれています。
足の筋肉が皮膚の上からでもはっきりと分かるくらいに発達していますね!
早稲田大学ア式蹴球部(サッカーの別名)に所属した川淵三郎さんは1年生からレギュラーに選ばれ、関東大会リーグで3年連続で優勝しています。
1年生からレギュラーだとはいかに川淵三郎さんの技術が高かったことがうかがえますね。
大学在学中ではありませんが、東京オリンピックに出場して対アルゼンチン戦でゴールを決めているんですよ!
東京オリンピックに向けての練習中の画像を見ると、クラマーコーチを前に直立不動だったのかと思いきやフランクな態度に器の大きさを感じますね。
【川淵三郎の大学時代の同級生】
川淵三郎の出身高校
川淵三郎さんは1952年4月に大阪府立三国丘高等学校へ入学し、1955年3月に卒業しています。
学校名 | 三国丘高等学校 |
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学科・コース | 普通科 |
偏差値 | 73 |
入試難度 | 難関 |
所在地 | 〒590-0023 大阪府堺市堺区南三国ヶ丘町2−2−36 |
公式HP | http://www.osaka-c.ed.jp/mikunigaoka/ |
川淵三郎さんが三国丘高校出身であることは、同校のホームページに本人が『先輩からのメッセージ』と掲載されていることから間違いありません。
日本代表になるほど運動神経抜群の川淵三郎さんが難関高校に進学していたとは、文武両道なんですね。
川淵三郎は四国に釣られてサッカー!
川淵三郎さんはラグビー部に入りたかったのですが、部が存在しなかったので運動部を探していました。
たまたま試合の助っ人にサッカーの試合に出場したことがきっかけで川淵三郎さんはサッカー部にスカウトされたんだとか。
サッカー初心者でありながらファインプレーをしたのでしょう。
川淵三郎さんはサッカーに興味はなかったものの四国の西日本大会に出場するために高松へ行けるということを聞いて、入部することを決めたんですって!
第二次世界大戦後10年も経過していない頃で船に乗れることが嬉しくてたまらなかったんだとか。
動機は正当とは言えませんが、ポジションはFW(点を決める係)だったことからも川淵三郎さんはチームで花形だったことが見受けられます。
当時のチーム画像をみるといい笑顔をしていて青春を謳歌している雰囲気が伝わってきますね。
サッカーだけの高校生活だったのかと思いきや、高校の最寄り駅の商店街にある映画館に通っていたんですよ。
修学旅行をキャンセルして積立金を返してもらい、映画代に使っていたというほど映画が大好きだったんですって!
1953年9月15日公開の映画『終着駅』を観ていたときは思いを寄せる女子生徒と一緒だったこともあったんです。
❝後ろの壁にもたれていたら、反対側の壁に好きだった同級生の女の子がいたんだよ。『好きな女の子と一緒に映画を見てるんだぁ』という幸せ感ったらなかったね❞
引用元:【堺をおもえば… 川淵三郎さん 堺の記憶(堺市)】
高校3年生の全国高校サッカー選手権大会では新聞に『超高校級FW』と書かれていたほどサッカーが上手で下記のようにイケメンならば、映画館で出会った恋が生まれていたかもしれませんよね。
川淵三郎の出身中学校
川淵三郎さんは1949年4月に高石町立高石中学校(現:高石市立高石中学校)へ入学し、1952年3月に卒業しています。
学校名 | 高石町立高石中学校(現:高石市立高石中学校) |
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偏差値 | ─ |
入試難度 | ─ |
所在地 | 〒592-0003 大阪府高石市東羽衣6−6−45 |
最寄り駅 | 富木駅(JR阪和線) |
公式HP | http://takaishi-gakkou.sakura.ne.jp/takatyu/index/ |
川淵三郎さんが高石中学校出身であることは、株式会社VICTORYが運営する『VICTORY』に同校出身と掲載されていることから間違いありません。
❝川淵は戦後の49年に高石中学校に進学すると運動部に所属します。❞
引用元:【VICTORYアスリート名鑑・川淵三郎(VICTORY)】
川淵三郎の野球のユニフォームは母の手作り!
野球部に所属していた川淵三郎さんは、戦後間もないということもありユニフォームは母親の手作りだったそう。
とても手作りユニフォームとは思えないほどの完成度ですね。
高石中学校は大阪大会で優勝したこともあるほどの強豪校でしたが、勝てば遠征するなど費用がかさむことから中学で野球はやめようと決めていたんだそう。
川淵三郎さんは家族思いの優しい少年だったんですね。
川淵三郎の出身小学校
川淵三郎さんは1943年4月に高石町立高石国民学校(現:高石市立高石小学校)へ入学し、1949年3月に卒業しています。
学校名 | 高石市立高石小学校 |
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所在地 | 〒592-0004 大阪府高石市高師浜3−19−17 |
最寄り駅 | 高石駅(南海本線) |
公式HP | http://takaishi-gakkou.sakura.ne.jp/takasyo/ |
川淵三郎さんが高石小学校出身であることは、2013年5月8日に日本サッカー協会が展開する『こころのプロジェクト』の一環で『夢先生』として母校である同校に訪れていることから間違いありません。
川淵三郎はNHKラジオ放送劇の常連!
小学4年生のときにテレビ寺子屋で有名な吉岡たすくさんが赴任してきました。
演劇部に所属していた川淵三郎さんはNHKラジオ放送劇に100回以上も出演していたんですよ。
100回を超えるとは、川淵三郎さんに演劇の才能もあったということですよね。
吉岡たすくさんのもとで高校2年生まで演劇を続けていましたが、修学旅行をキャンセルしてまで映画を観ようとした理由が小学生からの活動の影響だったんですね。
当時の画像を見ると、ラジオじゃなくて顔出ししてほしいほどの可愛い少年ですよ。
(※前列左から:兄、川淵三郎さん、次兄、父親)
川淵三郎の学歴一覧・出身地詳細
【調査中】幼稚園 保育園 | |||
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入園年月 | ─ | ||
卒園年月 | ─ | ||
高石町立高石国民学校(現:高石市立高石小学校) | |||
入学年月 | 1943年4月 | ||
卒業年月 | 1949年3月 | ||
高石市立高石中学校 | |||
偏差値 | ─ | 入試難度 | ─ |
入学年月 | 1949年4月 | ||
卒業年月 | 1952年3月 | ||
大阪府立三国ヶ丘高等学校・普通科 | |||
偏差値 | 73 | 入試難度 | 難関 |
入学年月 | 1952年4月 | ||
卒業年月 | 1955年3月 | ||
早稲田大学・第二商学部 | |||
偏差値 | ─ | 入試難度 | ─ |
入学年月 | 1957年4月 | ||
卒業年月 | 1961年3月 |
ここまで川淵三郎さんの学歴について見てきましたが、出身小学校が高石市立高石小学校ということから出身地は大阪府高石市でしょう。
大阪府高石市は高師の浜で有名なので川淵三郎さんは素潜りで魚を取ったりしていた子供時代を過ごしたのかも?
東京オリンピックに出場していた川淵三郎さんは、大阪で難関高校とも言われる学校に通い、大阪大学を目指していたほど頭脳明晰でした。
学生時代に鍛えた体力と筋力があれば、まだまだ現役で活躍されることでしょう。