わずか2ヶ月のお笑いの授業のために残り者でコンビ結成していたことや中学時代はモテモテだった!
内村光良の学歴・経歴一覧
まずは内村光良さんの学歴と主な経歴を年表形式で紹介します!
ふりがな | うちむらてるよし | ![]() |
||
氏名 / 本名 |
※本名同じ | |||
生年月日 | 1964年7月22日生 60歳 |
|||
出身 | 熊本県球磨郡あさぎり町 | |||
身長 | 169cm 血液型 AB型 | |||
最終学歴 | 専門学校卒 横浜放送映画専門学院・演劇科 |
年 | 年齢 | 学歴・経歴 |
---|---|---|
1964 | 0歳 | 熊本県球磨郡あさぎり町生まれ |
父親は酒造業からコンビニ経営後閉店 | ||
1971 | 6歳 | 免田町立免田小学校(現・あさぎり町立免田小学校)入学 |
1974 | 10歳 | 人吉市立西瀬小学校転校 |
1977 | 12歳 | 人吉市立西瀬小学校卒業 |
人吉市立第二中学校入学 | ||
中学時代はモテモテ | ||
1980 | 15歳 | 人吉市立第二中学校卒業 |
熊本県立人吉高等学校・普通科入学 | ||
1983 | 18歳 | 熊本県立人吉高等学校・普通科卒業 |
1985 | 20歳 | 横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)・演劇科卒業 |
南原清隆とコンビ結成(残り者同志だった) | ||
マセキ芸能社に所属 | ||
1986 | 21歳 | 映画初出演『ボクの女に手を出すな』 |
1991 | 26歳 | CDデビュー『マモー・ミモー 野望のテーマ 〜情熱の嵐〜』 |
1994 | 29歳 | ドラマ初出演『仰げば尊し』 |
1996 |
31歳 | 小説『アキオが走る』 |
1998 | 34歳 | 第49回NHK紅白歌合戦初出場『ポケットビスケッツ』 |
1999 | 35歳 | 遠泳リレーでドーバー海峡横断成功 |
2005 |
41歳 | 徳永有美と結婚 |
2006 | 42歳 | 映画初監督『ピーナッツ』 |
2007 | 43歳 | レギュラー『世界の果てまでイッテQ!』 |
2009 | 45歳 | 長女誕生 |
2013 | 49歳 | 長男誕生 |
2017 | 53歳 | 吹き替え『SING/シング』 |
NHK紅白歌合戦総合司会 | ||
2019 | 55歳 | 人吉市民栄誉賞 |
(※緑文字:学歴 赤文字:印象的な事柄)
熊本県球磨郡あさぎり町出身の内村光良さん。父親は松の泉酒造合資会社の一員でしたが、人吉市でコンビニを開店し、現在は閉店しています。
【松の泉酒造合資会社】
〒868-0422
熊本県球磨郡あさぎり町上北169-1
松の泉酒造合資会社のホームページに内村光良さんがカメの中で遊び回っていたことが書かれているんですよ。
松の泉酒造合資会社の現社長は内村光良さんのいとこで、現在、梅酒をウッチャンボトルとして販売しています。
母親はコンビニの手伝いをしていたことでしょう。内村光良さんには妹がいますが、一般人のため詳しい情報は出てきていません。
内村光良さんの別のいとこは放送作家の内村宏幸さんです。
老舗の酒屋である家庭に生まれ、4人家族として育った内村光良さん。
そんな内村光良さんはどんな学生生活を送っていたのでしょうか?当時のエピソードや画像などを現在からさかのぼりながら見ていきましょう!
内村光良の出身専門学校(評判・学費)
内村光良さんは1983年4月に横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)・演劇科へ入学し、1985年3月に卒業しています。
学校名 | 横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学) |
---|---|
学科・コース | 演劇科 |
所在地 | 〒215-0014 神奈川県川崎市麻生区白山2-1-1 |
最寄駅 | 新百合ヶ丘駅(小田急線) |
学費 | 初年度:188万円 |
内村光良さんの出身専門学校については所属しているマセキ芸能社のホームページに横浜放送映画専門学院(現・日本映画学校)演劇科85年卒業と書かれています。
横浜放送映画専門学院は1975年に開校した2年制の専門学校でしたが、内村光良さんが卒業した1985年に日本映画学校として改称され、2011年には日本映画大学が認可されたんですよ。
日本映画大学は日本初の映画学部のみの単科大学で、多くの映画監督、脚本家、俳優、お笑い芸人を輩出しています。
主な卒業生は長谷川初範さん、出川哲朗さん、狩野英孝さん、バカリズムさんがいます。
内村光良は専門学生時代に残った者でコンビに!?
内村光良さんは高校時代に映画館で鑑賞した「ロッキー」に感銘を受け、映画監督を目指し「横浜放送映画専門学院」へ入学します。
授業の一環でお笑いの授業を必ず2カ月やらなければならず、南原清隆さんとコンビを組んだのですが、お互いに残り者同志だったんですって!
映画の専門学校なので、お笑いの授業は身に入らなかっただろうと想像しますが、講師の内海桂子・好江師匠が「お笑いで行け!」と背中を押すほどネタが大ウケだったそう。
お笑いスター誕生!!のオーディションをうけてウッチャンナンちゃんはブレイクしました。
実は、内村光良さんが学校でいちばん仲が良かったのは出川哲朗さんだったんです。
内村光良さんは出川哲朗さんから「チェン」という愛称で呼ばれているんですが、その理由はジャッキー・チェンに似ているからでした。
出川哲朗さんが内村光良さんのことを「チェン」と呼び続けていたことから、出川哲朗さんの母親が内村光良さんのことを中国人だと思っていたほど。
内村光良さんは専門学校時代お金がなかったので、出川哲朗さんに食べさせてもらっていたんだそう。
出川哲朗さんのアルバイト先である喫茶店に週3回ほど来て、タダ飯カレーを食べていたんです。
にもかかわらず、コンビを組まなかったとはお笑いのセンスに違うものを感じていたのかもしれませんね。
ちなみに、コンビ名は当初『おあずけブラザーズ』だったそうで、犬のしつけである「おあずけ」から来たのでしょうか…。
内村光良の出身高校(偏差値・評判・学費)
内村光良さんは1982年4月に熊本県立人吉高等学校・普通科へ一般入試で入学し、1985年3月に卒業しています。
学校名 | 熊本県立人吉高等学校 |
---|---|
学部・学科 | 普通科 |
偏差値/難度 | 52/中 |
所在地 | 〒868-0023 〒 熊本県人吉市北泉田町350 |
最寄駅 | 相良藩願成寺駅(くま川鉄道) |
学費 | 初年度:33万円 |
内村光良さんの出身高校については2020年12月28日発信の『熊本県』に人吉高校卒業と掲載されています。
人吉高等学校は1924年に創立した公立高校で毎年120名ほどの国公立大学へ合格者を出している進学校です。
全日制と定時制があり、部活動が盛んで平成17年度の県高校総体にカヌー部が優勝しています。山岳部は熊本県三連覇をするほどの強豪部です。
主な卒業生はミュージシャンの恒松正敏さん、歌手の塚原哲平さんがいます。
内村光良は高校生時代に映画自主製作!?
内村光良さんは映画監督を目指していたため、高校時代には映画同好会に入部し高校1年生の最後に自主制作映画『飛んでやる』を制作しました。
高校2年生の頃には反戦映画「戦争愛しています」を制作するも不評に終わり、高校3年生の時には「男物語」を制作しているんですよ。
当時から映画監督を目指していた内村光良さんは、自身が主演のアクション映画を撮影していました。
「男物語」は好評で、映画が放映された視聴覚室には2日間に渡って人が押し寄せたんだそう。
『熊本県』のインタビューでは映画を見るために急行電車で2時間かけて映画を観に行っていたそうで、本当に映画好きだったんですね。
映画撮影の機材を揃えるために、内村光良さんは夏と冬に実家の酒屋でバイトをしてお金を稼いでいます。
ちなみに当時撮影した3本の映画作品や撮影機材は今でも内村光良さんが上京の際に持ってきた大切な宝物なんだそうですよ。
そんな内村光良さんですが、映画制作に夢中になっていたあまり高校時代には学力がガクッと下がってしまったんだとか…。
高校卒業後に進学する「横浜放送映画専門学院」に行くのを決めたのも即決だったんですって!
また高校2年生の頃から彼女がおり、春休み期間に映画「伊豆の踊り子」を鑑賞した後にファーストキスを経験していたそうで、レモンの味がしたのかもしれませんね。
内村光良の出身中学校(偏差値・評判・学費)
内村光良さんは1977年4月に人吉市立第二中学校へ入学し、1980年3月に卒業しています。
学校名 | 人吉市立第二中学校 |
---|---|
所在地 | 〒868-0081 〒熊本県人吉市上林町622 |
最寄駅 | 人吉駅(JR九州) |
内村光良さんの出身中学校については熊本日日新聞が運営する『くまにちの生活情報誌あれんじ』に第二中学校が母校として紹介されています。
第二中学校は1949年に設立した公立中学校で、パソコン部は熊本県教育委員会くまもとICTコンテストマルチメディア部門受賞常連校です。
主な卒業生は体操選手の桑原俊さん、ソプラノ歌手の水野貴子さんがいます。
内村光良の中学生時代はモテモテ!
内村光良さんは中学3年生の時に生徒会長を務め、野球部に所属し副キャプテンを任されるなどかなり目立つ存在でした。
そのため中学校時代、内村光良さんはかなりモテモテだったんですよ!
野球部ではセカンドを守っていましたが、サードにポジションが変わると冒頭エラーを繰り返してしまったそう。
部活の前には映画『ロッキー』の気分でグレーのスエットを上下買って、レモンを1個丸齧りしてからジョギングに励んでいたんだとか。
完全に映画オタク化していた内村光良さんは中学1年生の1977年5月9日に当時放送されていた「月曜ロードショー」で放映された「街の灯」に衝撃を受け、映画監督を目指しはじめます。
映画「街の灯」はチャップリンが監督・製作・主演を務めた映画作品です。内村光良さんは母親と一緒にテレビで見ていたそうですが、号泣してしまったそう。
中学2年生になると、クラスの劇としてチャップリンの「キッド」を元にした劇を文化祭で披露します。内村光良さんは脚本・演出・主演を務めました。
この劇では内村光良さんがパントマイムを披露し、会場が沸いたと言います。
そして中学3年生になると、イタリア映画の「自転車泥棒」をオマージュした舞台を上演するなど、中学生の頃にはすでに自ら脚本・演出・主演を手掛けています。
なぜ芸人になったのかと不思議なくらいに映画にどっぷりだったんですね。
内村光良の出身小学校(評判)
内村光良さんは1971年4月に免田町立免田小学校(現:あさぎり町立免田小学校)へ入学し、1974年9月に人吉市立西瀬小学校へ転校、1977年3月に卒業しています。
【免田町立免田小学校】
学校名 | 免田町立免田小学校(現:あさぎり町立免田小学校) |
---|---|
所在地 | 〒868-0408 熊本県球磨郡あさぎり町免田東1719 |
最寄駅 | あさぎり駅(くま川鉄道) |
内村光良さんの出身小学校については2016年10月16日発信の神奈川新聞『カナロコ』に❝熊本県あさぎり町上(現)に生まれ❞と書かれていて、免田小学校の学区です。
【人吉市立西瀬小学校】
学校名 | 人吉市立西瀬小学校 |
---|---|
所在地 | 〒868-0077 熊本県人吉市下戸越町1654−1 |
最寄駅 | 人吉駅(JR九州) |
内村光良さんの出身小学校については同じ西瀬だったというつぶやきがあります。
内村光良は小学生時代に8ミリカメラ!
内村光良さんは父親の影響で8ミリカメラにのめり込んでいたんだそうで、すでに映画監督気分だったのでしょう。
小学校の時に行われたレクリエーションで、内村光良さんは人形劇を披露します。そのタイトルは「豊臣秀吉物語」でした。
内村光良さんは秀吉の幼い頃の話に共鳴を受け、自身の「内村光良」と「豊臣秀吉」の字面が似てるという理由から主人公の名前は「豊臣光良」にしたんだそうですよ。
人形劇では内村光良さんの母親が、人形製作を引き受けています。
内村光良さんは当時から色白だったため、学校の先生からは「歌舞伎役者になるといい」と言われていたと2016年の雑誌「ぴあ」インタビューで話しています。
小学生の頃から脚本や、構成などを手掛けていたとは…内村光良さんは目指すべくして現在芸能界で活躍されていると納得してしまいますよね。
内村光良の学歴・経歴まとめ
ここまで内村光良さんの学歴と主な経歴について見てきましたが、専門学校の2ヶ月のお笑いの授業がなければ、映画監督1本で活躍していたのかもしれませんね。
出川哲朗さんと専門学校時代から友人だったことは有名ですが、食べさせてもらっていたとは驚きでした。
司会業や作家もこなす内村光良さんは、地頭がいいからデキるのでしょうね。
これから、映画作品が増えて行きそうな予感がしてワクワクします。